モータの不思議と更なる可能性の探究
第二回 シュタインメッツ:1920年代にIT用モータを着想
モータの発達史の中で、不思議なモータがいくつかありました。いろいろな意味で不思議でした。
ヒステリシスモータはそのうちの一つで、テープレコーダに使われた大変便利なモータでした。
テープレコーダは、磁気媒体(長いテープ)への情報の記録、蓄積、読み出しの技術史において重要な装置だったことは言うまでもありません。磁気テープを一定の速度で移動させるのは、アナログ信号にとっては重要は技術です。それを極めて簡単な構造で可能にしたのがヒステリシスモータです。
それは、前回の記事に書いた回転磁界型の交流モータであり、交流電源の周波数と一定の比率の速度で回るモータです。このようなモータを同期モータと呼びます。
中型および大型の正統な同期モータを静止状態から起動させるためには、補助装置が必要ですが、ヒステリシスモータはそれを必要としません。巻線に交流の電流を流すだけで、滑らかに起動・加速して同期速度に入ります。
その不思議な仕掛けは、前回の図4の写真に見えるようなリング状の磁石材料の中に宿されているのです。その材料の特質のために、滑らかに起動・加速して同期速度に達することができて、負荷の大きさが変動しても速度が一定に保たれることが、ヒステリシスモータ特有の特徴です。
図1は、1960年代の高級テープレコーダにおけるヒステリシスモータの使い方を描いたものです。毎秒の回転数が、2極巻線なら50ないし60回転です。つまり関東・東北・北海道では50回転ですが、静岡県の富士川以西では60回転です。
この速度は速すぎるために、4極巻線のモータがよく造られていたのですが、その場合には25ないし30回転です。8極巻線もよく使われて、それは毎秒12.5ないし15回転でした。
ヒステリシスモータの原理を発見したのは誰か
このモータの原理を見つけたのはいったい誰なのか? 一人がシュタインメッツだとする説は確かだと思います。
今回の歴史コラムに記したように、シュタインメッツは、ビスマルクの政権から睨まれて、スイスに逃亡してETH(連邦工科大学)で大学の単位を修得した後に、身を隠すようにアメリカにわたり、やがて才能を開花させました。送電に使うトランスで起きるヒステリシス損失の理論から、磁気ヒステリシスが損失だけでなく、交流モータに活かすとトルクを発生することを発見したのだと思います。
磁気ヒステリシスとは、B-H特性の時間的な関係が、図2(b)のようなループを描くことです。同図(a)のように、B-H特性が原点を通る曲線あるいは直線上を変化する磁鋼は軟磁性体と呼ばれます。
(b)のように現在のB-H状態が過去の状態によって異なるのが硬磁性体です。永久磁石は硬磁性体です。
ここで重要なのが、1881年にヒステリシス現象を見つけてhysteresisを造語したのは日本滞在中のJames Ewing(1855-1935)だったことです。これがイギリスの磁気研究に与えた影響は大きく、ケンブリッジでは強磁性体の電磁気学の理論が鋭意進められました。それを担った一人がLivensです。
彼の1918年の著作にTheory of Electricity[1]があるのですが、その中に前後の脈絡なくヒステリシスモータの根拠になる電磁力の式とあわせて、静電モータの理論式も出てきます。これらはベクトル解析の式を使っているのですが、何か説明不足です。
ヒステリシスモータがアメリカで最初に作られたのは、シュタインメッツ没(1923年)後10年以降だろうと思われます。
B.R.Teareは1937年にYale大学に提出した学位論文に、電気力学に仮想変位の原理を適用してトルク理論を展開し、制作に関するデータを詳しく記しました。
ちなみに、永守重信氏がNIDECを創業する7年前(1966年)、ティアックで情報機器用モータの設計を研究し始めたころですが、Teareのこの論文を入手して見せてくださったのは驚きでした。
必要なものを引き寄せる天性によるものでしょうか!!
Teareが別の理論展開によって、ヒステリシスモータのトルク発生に関する論文をAIEE(アメリカ電気学会、今日のIEEEの前身)の論文誌に寄稿したのが1940年のことです[2]。
戦後に知った日本のテープレコーダパイオニア
アメリカでヒステリシスモータが作られていた当時、世界の物理学の進歩はどんなものでしたでしょうか?
ヨーロッパでは量子力学が大きく発展していました。1929年に来日したハイゼンベルグとディラックが日本の若い物理学者に大きな刺激を与えました。
当時大阪大学に在籍していた湯川秀樹が、1935年に中間子の存在を主張する理論を発表しました。それが専門家の間で話題になり、彼がソブレー会議に招待されてベルギーに赴いたのが1939年です。
しかし、ヒトラーのポーランド侵攻があり、会議が中止となりました。この辺りのことの詳細については参考資料[3]をご覧いただきたいと思います。
物理学では素粒子論の扉が開いたころに、アメリカでは情報機器用の重要なモータが生まれていたのですが、日本の技術者は誰も知らなかったようです。これが不思議です。
1930年代に日本の物理学は最先端を走り始めたのに比べると、磁気応用技術ではイギリスから師匠を招いていながら、理論の勉強を怠っていたなと思います。
日本の技術者がヒステリシスモータを知ったのは、1945年の第2次世界大戦終結後にアメリカ製のテープレコーダが入ってきた時でした。
日本には磁気記録に使う交流バイアス法の特許があったので、ヒステリシスモータを自作できれば、両方合わせて強い技術になります。それにはロータに使う磁鋼の開発が必須の課題になりました。
湯川秀樹がノーベル賞を授与されたのは1949年で、日本中は湧き上がったのですが、使いこなせるヒステリシスモータはできませんでした。安価でばらつきのない優れた特性の磁鋼は1960年代になって東北金属の矢崎卓氏によって実現しました。
筆者自身も矢崎さんには大変にお世話になりました。同氏は多方面に傑出した才能をお持ちの方で今では俳句の世界で活躍されています。
技術の完成と限界、そしてブラシレスモータの登場
ヒステリシスモータ分野で筆者のささやかな貢献を一つ挙げると、巻線設計理論というよりは実用的な方法です。
日本では交流の周波数が50Hz地域と60Hz地域があり、モータの回転速度が異なるものですから、機械的手段としてキャプスタンの外径によってテープの周速を、たとえば、4極巻線を選択すれば毎秒9.5cmとなり、8極巻線を選択すれば4.75 cmになるように設定しました。
ただし、単相交流から2相交流を作るために必要なコンデンサの適正静電容量は、周波数に大きく依存するので60Hz地域で、例えば3μFであれば、50Hz 地域では4μFにしていました。
そういう条件で所定のスペースに4極の巻線と8極の巻線が適正に収まるような2組の巻線の仕様を決定する方法です。これは基礎計測をして、そのデータから計算尺を使ってまず線図を描くものです。今ではパソコンで簡単にできる程度のものですが、当時としては、筆者の方法は便利なものでした。
NIDECの創業時にも、この設計法は重要な技術だったと思います。
この理論を作ったのは、1964年の東京オリンピックが開かれているときでしたが、発表したのは1968年のことで、ドイツのこの方面の学術雑誌Technische Zeitschrift Aufgabeに掲載されました。
当時、小型精密モータの分野の技術はドイツ語文献で学ぶことが多かったものですから、少しはお返しができたと思っています。しかし、これは一つの技術の最後の完成のような仕事だったと思います。
ヒステリシスモータが日本の多くの小型モータメーカーで造られるようになって、しばらくすると、このモータがブラシレスモータに置き換えられ始めました。
部品点数は多くなるのですが、小型で精密な速度制御が可能な技術が発達したのです。これによって50Hzと60Hzのややこしい問題が完全に解消されました。
技術の発達は連続性を伴うことが多いのですが、ヒステリシスモータからブラシレスモータへの移行においてもそうでした。図3の写真は1970年代のNIDEC製のブラシレスモータです。
モータの構造はほとんどヒステリシスモータと同じです。違うのは次の3点です。
- 1)材料:ロータのリング材にコバルトを加えて保磁力を大きくして、本格的な永久磁石とした。これによって同じサイズで大きな出力がだせるようになった。同じ出力なら小型化が可能。
- 2)インバータの採用:ほしい周波数と電圧の交流を直流から作りだすのがインバータであり、そのための電子素子としてバイポーラ型トランジスタが使えるようになった。
- 3)位置センサの利用:インバータに使う4個のトランジスタの制御信号はロータの回転角(位置)を検出しながら発生する必要がある。図3の事例ではロータの4極磁極と3個のホール素子によって1回転を12分割した検出ができる。
音声の記録再生から画像の記録再生へ
ヒステリシスモータの限界がはっきりしたのは、磁気テープを使うアナログによる情報記録・再生が音声から画像に進んだ時でした。
磁気記録もデジタルとなり、媒体がハードディスクになりました。これを駆動するモータは強力な永久磁石を使うブラシレスモータです。
磁気ヒステリシスと現代の技術とのつながり
シュタインメッツが研究対象としたのはトランスや大型発電機などに及ぼす磁気ヒステリシスの影響だったと思います。これは今日でも残された重要問題です。
磁気ヒステリシスは、熱の発生(つまり発電された電力を無駄な熱にする作用)と同時にトルクの発生にも寄与します。回転磁界型モータの基本モデルでは、損失とトルクの関係はよく解明されているのですが、省資源モータとして注目されているSRモータ(switched reluctance motor)については、この辺りの理論がまだ完璧とは言えません。そのために、市販の設計ソフトでは正確な損失計算とトルクの計算もできません。
優れたモータの開発と設計のためには、深い基礎研究から得られる知識と、素材の特性や実測データの蓄積が必要不可欠です。この辺りには、電磁力学の奥深い探究課題も潜んでいます。
最近の筆者の著作『SRモータ』[4]では、この辺りのことを考察するための関連事項をかなりのページ数を使って論じてみました。
父は南ドイツのブレスロー(Breslau)で鉄道の石版技師だった。1883年、彼の数学の才能を生かそうと父はKarl(英語名はCharles)をブレスロー大学に入れた。そこで彼は幅広い勉強をした。1888年の卒業直前、ビスマルク宰相の政府を批判する論説を書いたかどで検挙の手が伸びようとした。それを知った彼はウイーンを経てスイスに逃れ、現在の連邦工科大学(ETH)で数学と機械工学を学んで卒業資格を得た。
1889年、友人とともに新天地への移住を決行。アメリカにたどり着いたとき、無一文で英語が話せなかったことと遺伝による身体的特徴のために上陸に手間取ったと伝えられる。
ニューヨークで製図工として仕事を始め、同時に磁気ヒステリシスに関する研究をした。英語ができるようになるとシュタインメッツは電気学会に入った。ヒステリシスに関する正確な計算によって過熱のないモータを設計する数学力が学会で一躍有名になった(このとき27歳)。
1893年、勤務していた工場がGE(ジェネラル・エレクトリック)の傘下に入ってからはエジソンのもとで仕事をするようになった。高圧交流送電技術がアメリカで急速に発展できたのはシュタインメッツの知力による賜物だった。彼の計算力は抜群でエラーが無かったので、GEの重役の間ではSupreme Court(最高裁)というニックネームで呼ばれた。
彼は複素数を使う交流回路理論を、エジソンの実験助手のケネリー(Arthur E. Kennelly 1861-1939)とほぼ同時の1893年に発表した。
ちなみに、この理論は電気工学の重要なツールである。先に述べたヒステリシスモータの巻線設計法にもシュタインメッツの交流回路理論を適用した。筆者(見城)の著作の中では[5]で複素数による計算法を解説している。
筆者はETHを訪問したことがある。
驚いたことに、モータの計測実習場が大変に大きく、美しく整然としていた。
製造業にとって重要なことは、モータの維持管理をする実務的な技術者の教育を効率よく展開するためのワークショップである。
実務教育(職業訓練)の大学でありながら、そこではシュタインメッツやアインシュタインのようにイノベーティブな才能が育成されるのが、また不思議である。
- [1] G.H.Livens: The theory of electricity, Cambridge University Press, 1918
- [2] B.R.Teare, Jr: Theory of hysteresis-motor torque, Trans. AIEE 59, p.907 (1940)
- [3] http://gihyo.jp/science/serial/01/pythagoras/0014
見城・佐野著『ピタゴラスの定理でわかる相対性理論』(技術評論社)をより面白く、
深く読んでいただくための補講、第14回:相対論から量子力学への展開と日本の時代 - [4] 見城尚志:SRモータ,日刊工業新聞社
- [5] 見城尚志:電気工学入門講座,電波新聞社