モータの不思議と更なる可能性の探究

第一回 二コラテスラ: 沈む夕日から交流モータを発明

Nidec Technical Adviser
見城尚志

筆者の著書の中に、すでに絶版になって久しいのですが『モータのABC』(講談社)という書籍があります。そのまえがきに、クイーンメリー号の二等船室で原稿を書き始めたときのことを綴っています。81000トン、2000人乗りの豪華客船がサウスハンプトンからニューヨークに向かって最初の航海に出たのが1936年です。
イギリスの大宰相チャーチルが使った一等のスイートで、ある学会の主催者と歓談したことも書いてあります。2等船室でも結構広く、快適な部屋でした。これは25年も前の1987年のことで、クイーンメリー号は引退してロングビーチの港でホテルになっていたのです。

この本をめぐる講談社ブルーバックスの編集会議では、今さらモータの本-しかも小型モータの本―が売れるのかという否定的な意見が大半だったそうです。しかし、結果的には20刷を超えて6万冊近くも買っていただきました。当時、日本では小型モータの技術が成長していました。
『モータのABC』の後に、より詳しくA to Zを念頭にいれて書いたのが『小型モータのすべてがわかる』(技術評論社)です。最初の出版が2001年でした。筆者はモータの特定の問題を扱った学術論文もいくつか書いたのですが、多くの方に知っていただいたのは専門書や上記の啓蒙書です。こういう執筆活動をしていると、モータの発展史について考えることもしばしばあって、これまでにそれなりの時間を費やしたと思います。

歴史を語ろうとすると、どんな原理のモータがどこで作られたかということに終始した記述になるのが普通ですが、筆者は少し違う観点からみることもあります。まず例外なく言えるのですが、新しいモータの発見があるときその国の産業と科学は発展していました。

1765年、イギリスでワットが蒸気機関というモータを発明しました。これが産業革命を引き起こしたことは誰でも知るところです。これをきっかけとして、フランスのカルノー(1824)やイギリスのケルビン卿(1851)によって熱力学の重要な法則が発見されました。石炭を使って大西洋を横断するような豪華客船ができたのも熱力学の成果によるものでした。

近年を見ると、1980年代の日本では三つのことが特筆されます。
一つは指田年生による進行波型超音波モータの発明がありました。二つ目は、磁気記録の方式としてハードディスクが発展し、ディスクを回すモータとヘッドを操作するモータの技術が日本で成長したことです。三つ目は、モータの制御法としてベクトル制御というものがあり、その原理を提唱したのは若いドイツ人だとされているのですが、それを実現する努力を協力して行ったのが日本企業でした。

動くものは、人間活動・経済活動の活発さを象徴するようなものです。この技術をつねに磨いて高めていくのは産業界の役目です。1987年に『モータのABC』を書いていたとき、大学でのモータの教育が薄らいでいていることを少し嘆きました。しかし今は、少し考えが違います。大学ではその後の人生では学ぶことが困難な数学・物理・化学などの基本的なことを深く考える訓練に時間を費やすのがよいと思います。ただし、過去30年の間に日本の大学の授業時間が短くなり、講義の質も低下したので、志の高い若者には環境を克服する工夫が肝要だと思います。実用に近い基本から少し深いところは企業活動に入ってから心を引き締めて、たゆまぬ研鑽を重ねることが大切だと思います。すると大学時代に培った基本思考が大きな成果を生みだしてくれます。

ニコラ・テスラの凄さ

あるとき、NIDECの創業当時から営業活動を率いてきた服部執行役員と朝の電車の中で話す機会がありました。彼はモータの開発史のなかでもっとも優れた発明家はテスラではないかと言いました。なるほど、そうかもしれません。

この機会にテスラのことに少し触れたいと思います。
テスラの伝記として読んだことがあるのは、東大教授だった山村昌氏が学士會会報に寄稿されたものです。山村先生は日本を代表するモータの先生だといわれた方で、先生の本が英国の出版社から出たときに日本料理屋で宴をもちました。そのとき、まず先生から、「見城さん、私はあなたのように教科書なんかを書かないよ!」とお叱りを受けました。先生の本は専門家向けのスパイラルベクトルという理論を提唱するものでテスラの回転磁界とは無縁の理論ではないのですが、それよりもテスラ伝が面白いです。テスラの自伝[1]からは、命がけの発明家を目指した狂気と気迫を感じます。コラムはテスラの伝記を大変に短くしたものです。
テスラは多くの本を初めから終わりまで暗記していたようです。興味深いのが、1882年のある日の午後、ブダペストにある公園を友人と散歩しているとき、ゲーテのファウストの「沈む夕日が輝かしい」の一節を暗唱したときに、天啓のように交流モータの発想に思いついたというところです。それがどんなものだったのか想像してみます。

グラムのモータからの発想

図1 グラムのモータ

テスラがグラーツの学校でみたグラムの発電機あるいはモータは図1 のような構造のものでした。ステータには馬蹄形の電磁石を、ロータにはリング状の電機子(armature)を備えていました。モータとして使うときにはブラシをとおして電流を電機子に供給します。すると回転に伴ってリング側面の巻線との接触が切れるときに激しい火花が発生します。このような機械的なスイッチ機構をしている限り、火花が伴います。接触の無い直流モータができないものなのか当時の最先端科学者が考えたのですが、それは永久機関の発明のように不可能だと思われたのです。今でもこれにこだわっている多数の発明家がいます。

テスラが思いついたのは交流の利用だったのですが、それほどたやすい発明ではかったようです。最終的にブタペストで閃いた電磁石とロータの関係を断面で説明すると、図2のようなものだったと想像されます。トルク(回転力)を発生させるために必要な磁界を発生する装置を界磁とよぶのですが、直流モータには1セットしかありません。ところが、図2 のように横のほかに縦にもう1セットおきます。そして図3 に示すように、横セットにはcos で変化する正弦波の電流を流し、縦セットにはsinで変化する電流を流します。すると、円筒形のロータを通過する磁界は回転します。筆者はロータと磁界の様子と輝く夕日が重ねあわさったテスラのイメージを感じます。

図2 テスラが得たと思われる2相交流モータの原理

電磁石という物体を動かすことなく、磁界だけを回転させることができる原理がこれです。磁石を動かすと銅などの金属に力が作用して磁石の動きについてくることも、ロータに巻線をつかえばそこに電流が発生することも、ファラディの法則によって当時すでに知られていました。ですから、テスラが考えた原理で回転磁界ができれば新しいモータが発明されたことになります。その翌年にテスラはフランスのストラスブールで交流モータを試作して回転することを確かめたのですが、できが良くなかったのかあまり関心を集めなかったようです。

この発明を本格的に実施できたのは彼がアメリカにわたってからです。すると間もなく改善研究が世界中で始まって、図4 にみるような今日の分布巻のステータと籠(かご)型ロータが作られるようになったと想像されます。

図32組の電磁石の中央にcosとsinの交流電流を流すと、モータの中央では磁界が回転する。ここに導体や短絡巻線をおくと電磁誘導によって磁界の回転に引きずられて回転する。
図4典型的な小型3相交流巻線(分布巻)のステータと籠型ロータ。今日では機械作業で巻線をするので,このようにコイル端の短い巻線は珍しい。

新しい発想への挑戦

私はブダペストに短い旅をしたとき、ピアニスト・作曲家のリストが住んでいたアパートを訪ねましたが、ひょっとするとテスラが鯰のように騒音に苦しんだアパートはこんなところだったのかな?とか、ドナウ川のほとりの公園を散策して彼が天啓を得たのはここだったのかな?など思いをめぐらしました。しかしそのとき自分は凡人だと思いました。なにも閃きませんでした。

大学3年生の講義で、2組の巻線に交流を流すことによって回転磁界というものが発生してモータができるという原理をきいたときに、うまいことを考えた人がいたのだなと感心しました。しかしそれはテスラの発明以降にわかりやすく作られた教科書的な説明でした。山村先生が「私は教科書を書かない」と仰った真意とつながるものでしょうか?
誰かが考案したことを聞いて短時間で理解するとことと、苦しんで苦しんでそれを発明することの違いがこんなに大きいのか、なかなか実感できるものではありません。

ここで示した図2 を思いついた背景には、ブダペストへの旅のあと、直流モータについて執筆するために、昔の資料を調べたり試作・実験したり、専門家と議論するという作業にほぼ5年を費やした経緯があります。そしてさらに3年後、専門家になろうとする初心者むけの研修資料の作成をし始めて、(教科書には記載されていない)直流モータと交流モータの構造的なつながりを考えていたとき、テスラの発想はこれにちがいない!と思ったのです。テスラ自伝[1]を最初に読んだときは、速読してしまったらしく大事な考察を怠けたようです。最近になってこの本を探し出して一枚の写真をみて確認できたのですが、彼がブタペストで得た構造はやはり図2 のようなものです。日本の科学技術に必要とされるのは、優等生や秀才タイプよりも、若年にして新しいことを見つけようと挑戦する人材だと思います。

  1. [1] ニコラ・テスラ(新戸雅章 訳):テスラ自伝 -わが発明と生涯,テスラ研究所

(コラム)リング電機子から鼓型電機子へ

直流モータの電機子(ロータ)の現在の方式は写真のような鼓型(drum type)です。これを発明したのはSiemens and Halske社のアルテネック(Hefner-Alteneck)で、実用されるようになったのは1876年頃です。
これによって、巻線作業が容易になり、電気-機械エネルギー変換の効率があがり、さらに火花の発生も抑えられるようになった。

鼓型の模型をつくる
スロットに巻線をいれる典型的な電機子
ニコラ・テスラ
(Nikola Tesla 1856-1943)

聖職の父と発明家の母の子として1856年クロアチアに生まれた。母方の祖父も発明家だった。10歳で入学したレアルギムナジウム(実業高等学校)で理科の時間に静電気を使った錫箔の回転実験に魅せられて、父の期待であった聖職者ではなく電気技術者になることを決意する。
生まれながらの異様に鋭い感覚と神経衰弱による障害のために生死をさまよったが、ある図書館でマーク・トウェインの作品に出会って克服した。

オーストリアのグラーツ工科大学に入学。2年生のときパリから届いたグラムの直流モータが不具合をおこして整流子とブラシの間で烈しい火花を飛ばしているのを見て、火花の出ないモータの発明に確信をいだいて、そのことばかりを考えるようになった。卒業のためのボヘミアのプラハ大学での人文コースを途中でやめて、ブダペストに行きハンガリー国営電信局に就職した。しかし、微弱な振動を鯰(なまず)のように鋭く感じるようになり精神的な苦痛に悩まされた。快復した1882年のある日の午後、公園を散歩中に夕日に感動してファウストの詩を吟じたとき、天啓を得たように2相交流を使う回転磁界モータが頭に浮かんだ。その原理を説明するのが図2である。

その後、エジソンに関連した会社の仕事でパリに在住したが、自らの試作で交流モータの原理を確認したのは1883年フランスのストラスブールのある工場だった。1884年にエジソンの発明した発電機を改良するためにアメリカにわたった。学校も行かずに若い時代を発明のために有効に使ったエジソンと比べて、自分はヨーロッパ各地の図書館で多数の言語を習得しながら読書したことを悔しく思うこともあった。

しばらくすると、基本的な発想の違いのためにエジソンとは袂を分かったばかりでなく、熾烈な争いをする仲になってしまった。エジソンは直流送電主義であったのに対して、テスラは交流の利点を理論的に悟っておりトランスも発明した。
テスラが実用的な誘導モータを作ったのはウェスチングハウス社が交流送電事業を始めたときだった(1887か)。1893年のシカゴでの世界博覧会では大仕掛けのモータをまわして見せた。
ウェスチングハウスの開発段階では133Hzの交流を使ったがモータの速度が速すぎたので60Hzに落とした。これが今日のアメリカと日本の西半分での60Hzの起源である。

発明が順調に発展しているとき、テスラは文豪となったマーク・トウェインの訪問をしばしば受けた。テスラが少年時代にトウェインの作品で救われたことを話したところ、いつも笑顔のトウェインが突然号泣した。

参考資料:
[http://www.edinburghnews.scotsman.com/news/obituary-colin-mcdermott-playhouse-campaigner-85-1-3335762]

  1. [1]G.H.Livens: The theory of electricity, Cambridge University Press, 1918
  2. [2]B.R.Teare, Jr: Theory of hysteresis-motor torque, Trans. AIEE 59, p.907 (1940)
  3. [3]http://gihyo.jp/science/serial/01/pythagoras/0014
    見城・佐野著『ピタゴラスの定理でわかる相対性理論』(技術評論社)をより面白く、
    深く読んでいただくための補講、第14回:相対論から量子力学への展開と日本の時代
  4. [4]見城尚志:SRモータ,日刊工業新聞社
  5. [5]見城尚志:電気工学入門講座,電波新聞社

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